「何も考えずに打った一球が、ピンに向かって真っ直ぐ飛んでいった」
そんな経験をしたことはありませんか?
あのとき僕は、ゴルフに初めて“心を動かされた”瞬間だったのかもしれません。
「退屈」だった子ども時代のゴルフ
10歳の頃、父や兄の影響でゴルフを始めました。
でも正直なところ、僕にとってゴルフは「退屈なスポーツ」でした。
1打1打を打つのに止まって、慎重に構え、地味なことの繰り返しのゴルフに、僕は楽しさを見出せなかったのです。
それよりも、打って走って守る野球の方がよっぽど“スポーツらしい”と感じていました。
“テキトーに打つ”というひらめき
時は流れ、ゴルフを続けていく中で、ふとした瞬間に奇妙な発想が浮かびました。
「もし、何も考えずに“テキトーに”打ったら、どうなるんだろう?」
ドライバーも、パターも、ターゲットを意識せずに、ただ感じたままにスイングしてみたのです。
すると不思議なことに、想像以上のボールが飛んでいきました。
中でも、入るはずのないパターがカップに吸い込まれたときの衝撃は今でも忘れられません。
“狙わなかったのに入った”という逆説的な現象に、僕は言葉にできない感動を覚えました。
「意図しないこと」が生み出す力
意図を手放した瞬間の一打。
これは偶然ではない、と感じました。
弓道の達人が語る言葉を思い出します。
「的と一体になる」「矢が自然と放たれる」
弓道では、“中てたい”という意識を手放すことが、最も美しい「離れ」を生むのだといいます。
まさに僕が体験したあのパッティングも、“打とうとしない”ことが結果につながった感覚だったのです。
「退屈」から「関心」へ
あの一球の後、僕の中でゴルフの見え方が変わり始めました。
狙いすぎず、逆に任せること。
そして、自分の内側にある“何か”と向き合うこと。
それは、単なるスポーツを超えた“探求”の入り口でした。
今思えば、僕はゴルフが退屈だったのではなく、
「無心」で打つという本質的な面白さを知らなかっただけなのかもしれません。
“正しさ”を求めすぎると迷いが生まれる
次回は、書籍『弓と禅』の中で描かれていた「当てよう」とすると外れる paradox(逆説)について書いていきたいと思います。
禅的な視点で、ゴルフのスイングをどのように捉えていくか。
あなたにも“無心の一打”が訪れるヒントになれば嬉しいです。